八柳×ホリエ 桜皮細工のはんこ 桜はん
写真:樺細工
角館の伝統工芸
「樺細工」の歴史
角館の伝統工芸といったら「樺細工」。樺細工の原材料は桜の樹皮で樹皮を幹から丁寧に剥がし、それをほぼ1年ほど陰干しにして水分を抜いたものを使う。「樺」の字から白樺を連想される方も多くいるが、使っている材料はオオヤマザクラ及びカスミザクラの樹皮だけ。なぜ「カバ細工」と言うようになったのかは諸説があるが、はっきりしたことは記録として残っていない。角館でも、むかしは「サクラカバ」と呼んでいたのが、今ではカバといえば桜の樹皮をさすようになった。桜皮を使っていることをわかりやすく示すために、「桜皮細工」と書いて表示している場合もある。
秋田の角館の佐竹北家によって秋田県北部の阿仁地方から角館に技法が伝えられたとされ、藩政時代は下級武士の副収入源となっていた。十八世紀末から始まっており伝統は二百年を超えるとされる。これが、地域の職人の工房を通じて現代まで伝わっている。
写真:材料となるオオヤマザクラ及びカスミザクラの樹皮
材料となるオオヤマザクラ及びカスミザクラの樹皮。
秋田らしく、あなたらしく
「樺細工(かばざいく)」は秋田の角館だけに伝承されている
秋田の伝統的な木工工芸品です。
自然が生み出すその模様は世界唯一。
自身の分身とも言われる「はんこ」もまた、
一文字一文字 伝統の技を受け継いだ職人が彫るので世界唯一。

人生の大切な節目に「これぞ秋田」「これぞ自分」というはんこで捺印してみては?
そんな想いでこの「桜はん」はうまれました。
「秋田愛」をとことん追求したい方にはもちろんのこと、
人生の節目に喜ばれる「意味ある贈物」にもお勧めしています。
写真:桜はん
八柳×ホリエ
桜皮細工はんこ
桜はん
角館の樺細工の八柳とホリエのコラボで誕生した、 桜皮細工のはんこ「桜はん」。
吸い付くような押し心地といつもと違う樺のぬくもり。
秋田らしく、あなたらしくを追求した
新しい伝統工芸をお楽しみください。
15.0mm 
(姓名の彫刻)
25,000
(名字か名前の彫刻)
22,000
13.5mm 
(姓名の彫刻)
24,000
(名字か名前の彫刻)
21,000
※表示価格は本体価格となっております。
※ご注文から納品まで約1週間~2週間お時間をいただきます。
※秋田市内どこへでもお伺いいたします。お気軽にお電話ください。
写真:書体見本



写真:桜はんケース
桜を散りばめたケースを
おつけいたします
桜はんにぴったりのケースをおつけいたします。
3色からお選びください。


角館の武家屋敷と樺細工の八柳
写真/株式会社 八柳
株式会社 八柳
樺細工は桜の皮を使用した世界でも類をみない工芸品。 角館で明治9年創業の株式会社 八柳は伝統工芸である樺細工の伝統を代々受け継ぎ守りながら、製造販売・卸を行っている老舗。伝統的な技法や作り方を継承しながらも現代の生活スタイルに合わせた商品作りを行っており、地元をはじめ観光客からも支持を得ている。
「日用品として生活に樺細工を取り入れてもらいたい、日々の生活に樺細工を」。という思いから、商品開発に力を入れている。最近ではスマホケース等、若者にも人気の商品も手掛け、約300アイテムを揃えている。
樺細工八柳下中町店
〒014-0317 秋田県仙北市角館町下中町2番地
TEL.0187-53-2653 ■定休日:月曜日 ■営業時間:9:00~17:00
http://yatuyanagi.net
写真/角館の武家屋敷
角館の武家屋敷
「みちのくの小京都」とも呼ばれる角館。その始まりは定かではないが、角館の名がはじめて記録に登場するのは、豊臣秀吉の小田原攻めにも加わった大名、戸沢氏の系譜の中である。戸沢氏は標高一六八メートルの古城山(当時は小松山と呼ばれていた)に角館城を築城し、正面を北側に配し山麓には給人屋敷を配した。その後、情勢を窺って徳川方へと就いた戸沢氏は、安定した基礎を角館の地で築き上げていく。
慶長七年、徳川幕府の基礎が整い、転封・移封が相次ぐと、戸沢氏は常陸松山城へと移り、代わって水戸より佐竹氏が秋田一円の領主として移ってくる。佐竹氏の命により角館を統治していた芦名氏は、町の狭さや水害、火災に悩まされ、元和六年に古城山の南側へと新しい町造りを始める。
写真/みちのくの小京都
みちのくの小京都、
町並みに息を呑む。
芦名氏の築いた城下町は南北に三本の道路を通し、中央の道路をメインとして三五〇メートルでマス型地形とし、さらに同じ長さの道路を伸ばす。ここまでを武士の居住区域、内町と呼び、ここより南を商人の居住区域である外町と呼ぶ。内町と外町の分離帯は、幅二一メートルの広場に土塁を築き「火除け」と呼び、この地域とそれに隣接する商人町の横町のみが東西に直線で通ずるようになっているほかは南北または東西に直線で繋がることのないように配慮されている。
また、中央の道路は十一メートルの幅員をもち、家老以下の上級武士が居住し、その東側にはこれに準ずる武士、西側は徒士や足軽の居住区域に区分されていて、階級や知行高によって敷地居住にも規模の違いがあった。

武士の居住は大小にかかわらず、門があり、道路より少し奥まって玄関、取次ぎを設けていた。また、階級や身分による差は屋敷の部屋割りや水回りの便に表れていた。現在まで三八〇年余を経過したが、基本的な道路配置、屋敷区分は変わっておらず、武家屋敷の門前には「馬乗石・馬つなぎ石」、塀には女性が大名行列を覗くための「のぞき窓」が現在でも残っている。

こうして角館の町並を整えた芦名氏であったが、後にその家系は断絶してしまう。芦名氏断絶の後に「所預」として角館支配の任についたのが佐竹北家であった。北家時代の初期は農業開発が急速に進展し、また、林業・手工業の奨励、保護によって産業基盤の強化が図られ、商業活動も活発化し、角館は仙北郡の政治、経済、文化の中心としての基盤を確立していく。
写真/武家屋敷 内部
花開く文化

特に文化の面では、角館は久保田藩の文教の地と称揚され、文化的伝統を培った。
北家角館初代の佐竹義隣は京都の公家の出自であり、二代義明の室も三条西家の娘であった。北家当主は芸文を好む者が多く、家臣や組下武士においても、解体新書の挿絵を描き「秋田蘭画」の第一人者ともされる小田野直武を筆頭に学問や芸術に優れた人材を輩出するなど、二代にわたる京都との交流によって、角館は京文化の色濃い影響を受けた。
また、武家屋敷町並の百数十本の枝垂桜は、義明が京都から枝垂桜の苗木を取り寄せ植えたのが繁殖したと伝えられている。
角館が「みちのくの小京都」と称されるのは、町並の美しさに限らず、こうした京都に似た自然と文化的伝統の土地の故であろう。